ぜりーとゼラチン工場

限界大学生の思考掃き溜め

Instagramは「深淵」か

夜中眠れなくなると、インスタで繋がっている数少ない中学時代の友人のフォロワー欄から中学の同級生のアカウントを漁ることがある。そんなことをしても何も良いことないしむしろ自分の青春コンプをこじらせるだけだってことは重々分かっているのだけれど、どういうわけか定期的にやってしまう。

ご存知の方も多いだろうが私は中学時代クラスに友達がほとんどおらず、部活と勉強、本当にその二つしかやってこなかった。というかそれ以外することがなかった。朝は遅刻ギリギリで登校し、昼休みはずっと部室にこもり、帰りの会が終わったら真っ先に教室を出るという授業中しか教室にいない生活を三年間送っていた。昼休みに教室で勉強しようものなら白い目で見られる不真面目な学校でガリ勉の居場所などなく、テスト期間で部室が開いていないときはトイレに籠ってぼんやり過ごしたこともあった。私があまりにクラスメイトと交流しないものだから「あの人がテスト学年一位らしいよ」という噂に尾ひれがついて知らない所で神童呼ばわりされていたらしいという武勇伝(?)は今となっては笑い話だが、教室でちょっと勉強していただけで異端児扱いされた世界のこと、私は結構、というか相当、根に持っている。

そんな環境で学歴コンプをこじらせた最低女なので、同級生のインスタで真っ先に確認するのはプロフィールの学校名である。アルファベットの略称で書いてあるときはわざわざググってアハハFランじゃんと安心したりする。本当にお察し~な子は「福岡 大学生」とか「看護学生」とかだけだったりするけど。幸か不幸か、私より偏差値の高い大学に進学した子はいなさそうだった(かくいう私も大した大学には行ってないところがただ単に中学のレベルが低すぎたという話でミソ)。それはいい。それはただ私のプライドが傷つかずに済んだというだけの話であって、それは今する問題じゃないのだ。

気付いてしまった。彼ら彼女らは学歴なんてなくても、勉強なんてしなくても、娯楽を我慢してぶっ倒れそうになりながら毎日勉強し続けた私たちより何倍も何十倍も楽しそうな生活を送っている。その証拠として残っているInstagramの投稿の数々が何よりも、「努力は報われる」という言葉と私の自尊心を傷つけた。教室で白い目で見られようと、異端児扱いされようと、勉強を頑張って良い大学に行って成人式で見返してやろうなんて意気込んでいた高校受験真っ只中の私に現実はそう甘くないと伝えたい。でも、だからと言って私は同級生を見返すためだけに勉強していたわけではない。ただ単に勉強が好きだったから。好きだったからこそ、好きなことをしていただけで白い目で見られたあの世界が憎かったのだ。彼らにとっての体育が私にとっての数学で、私にとっての体育が彼らにとっての数学だっただけ、好きな教科と嫌いな教科は誰にでも当然それぞれ一つずつくらいあって、それが皆と少し違っただけなのに、決して嫌いな教科が多いというわけではないのに、どうしてここまで苦しい思いをしなきゃいけないのか。勉強をし続ければ、いつか見返せる日が来ると思っていた。もちろん中学の同級生に勉強では負けていないと思うし進学先とか共通テストの点数の話をすればすごいと褒めてくれると思う、思うけどそうじゃないのだ。私の見たかった世界はそうじゃない。別に勉強ができたからって何かめちゃくちゃ面白い遊び方を見つけられるわけじゃないし、日常生活で友達とかパートナーに囲まれるわけじゃないし、自信のある満面の笑みでプリクラに写れるわけじゃなかった。もちろん勉強してきて良かったなと思う瞬間は沢山あるから、勉強を頑張ったこと自体に後悔はない。でも、勉強ができることと同級生のインスタから溢れ出ている「勝ち組オーラ」は違うんだなとここに来て気付いた。一人でパソコンとにらめっこしながらほとんど喋ったこともない同級生の進学先の偏差値を勝手に見下している私より、周りの友達や家族を大切にして心からの笑顔で写真にうつっている同級生の方が何倍も人間ができていて、毎日幸せそうで、勉強はできなくても生きるのがうまい、と思う。そもそも努力といえば勉強、という考えがおそらくはなから間違っている。私が勉強を頑張っている間に彼らは人間関係とか部活とかバイトとか勉強以外のことで沢山頑張ったんだと思うし、そうであって欲しい。そうでないと、インスタのあの笑顔の秘訣が理解できなくて本格的に拗らせ青春ゾンビ女が死んでしまう。まず私は「幸せになるためには苦労しなければいけない」という思考を早く取り去るべきだ。悔しいかな私には愛嬌もコミュ力もなくあの子たちのように世渡り上手ではないので今まで気付かなかったが、「かわいい」ってすごい、と思う。大学生になってそれなりに身だしなみに気を遣うようになったが、メイクも髪のセットも上手くできるようになるまでどれだけのお金と勉強と練習が必要か。その労力を加味すれば、「かわいい」だけで無条件に愛される世界にも説明がつく。結局苦労してるじゃないかと言う人がいるかもしれないが、彼女らは別にそれを苦しんではいない、と思う。かわいいものを目にすれば心が躍るし、自分がかわいくなって素敵な服が似合うようになったら嬉しい、ただそれだけの原動力で楽しくやっている。かわいい子はずるいよね、なんて言って勉強に逃げている場合ではない。苦しまなくていいから、自分が楽しみながらできる自分磨きを見つけるのが多分一番うまいやり方ってやつだ。

ここまでインスタキラキラ陽キャのことを散々持ち上げたが、私は彼ら彼女らのキラキラ生活自体に憧れているわけではない。私は騒がしい人が苦手だしアウトドアよりインドア派だ。そもそも他人のことを勝手にガリ勉だとか陰キャだとか言って自分達の価値観とそぐわない人を除外するようになるくらいなら一生陰キャでいる方がマシだ。じゃあどうして。私は、他人のことを否定するような人間になりたくないのだ。どれだけ自分の理解の範疇を超えていようと、納得できないことであっても、他人がそれが正しいと思ってやっていることを否定したくない。否定した瞬間、私は中学時代の同級生と同じになってしまう。だから、嫌な思い出があっても、自分の価値観とそぐわなくても、彼ら彼女らのインスタを見てこれはこれでアリなんだろうなあと考えるようにしている、というかそうしなくちゃいけない。時折それは自分の首を絞める。でも多分それでいい。自分がそうしたくてやっているから。

「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」と言うが、私が同級生のインスタを覗いているとき、同級生はけっしてアイコンも名前も適当な私の投稿0件ROM専捨て鍵垢なんて見ちゃいない。だから、Instagramは深淵ではない。いつか、私もあの子たちのように自信満々の可愛い笑顔で写真にうつれたらいいな、とも思うし、同じようなコンプレックスを抱えた拗らせオタクフレンズとアニメアイコンのdiscordでいつものようにゲーム大会をする生活も案外悪くない。深淵はきっと、私の心の中にある。(終)

 

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