ぜりーとゼラチン工場

限界大学生の思考掃き溜め

成人式に行けなかった話

 地元の成人式には、行かなかった。行けなかった。青春ゾンビなので。私の成人式は、推しのライブ!有明アリーナ会場、楽しかったね!!!物販待ちで暇を潰している間インスタやTwitterを開けば目に入る、同期のはずの友達の成人式の素敵な振袖や集合写真、「写真撮った人下さい」の投稿、その中でひたすらライブの写真を投稿する自分。あれ?年齢同じだよね?私だけ何やってるんだ?おかしいな……

 地元もとい出身中学にあまり良い思い出が無く、久しぶりに会いたい人が全く居ないわけではないけどそれより圧倒的に会いたくない人間の方が多くて、勿論成人式には行く気になれなかった。昔の記事で書いたとおり、私のことを否定してきた人間が今”大人”として真っ当に生活しているところを見ると自分が壊れそうな気がしたから。これは自分の悪いところだと思うのだけど、私は「更生」を信じられないきらいがある。一度この人はダメだと思ったら、その人が今度どんな素晴らしい人間に成長しようと過去を無いことにすることができず、再び関わる気になれない。同じ「捨て猫を助ける」行為でも心優しそうな女の子がするのと強面な不良ヤンキーがするのとだったら後者の方が感動する、みたいな話が大嫌いだ。現在で何をやろうとも、過去の歴史を変化させる術は人類はまだ発明できていない。だから、その時のコミュニティに嫌気がさしたら、身の回りの人間を切り捨て新しいコミュニティに飛び込むしかなかった。自分にとって必要のない人間とは関わるだけ無駄で、自分の好きな、自分にとって必要な人間だけ周りに置く、そんな箱庭を作りたい。言い方を変えれば人に飽きる。我ながら最低な自覚はある。要するに、今既に新しいコミュニティで楽しくやっているのにわざわざ過去の一度ダメだと思ったコミュニティに戻る必要、ある?今の私は中学生の頃の私とは勿論変わっていて、今の自分の方が好きだ。だから、昔の自分に戻るのが怖くて、できれば振り返りたくない。今の私は違うから。

 それはそれとして人間はやはり無いものねだりで、過去の友達も現在の友達もぜーんぶ大切にできて同窓会を楽しめる人のことは純粋に羨ましい、と思っている。自分には出来ないことだから。成人式に行った方が良かったかと訊かれたら決してそうとは言い切れないけれども、成人式に行けなかった自分に、過去の未熟な自分を振り返る勇気が出なかった自分に、これから先一生コンプレックスを背負い続けるのだと思う。実際に成人式に行く予定であれば自分が今大切にしている趣味のライブには日程ドン被りで行けなかったわけだし、過去の自分と現在の自分、どちらを大切にするかと言われたら勿論現在を優先したいけれども、過去のものだからと昔の人間関係を切り捨てるのもどうかと思うし人を物として扱うようなことしてたらいつかは罰が当たりそうだな~と考える。結局自分はまた、成人式に行かないという”マイノリティ”になってしまったことが悔しいだけかもしれない。スポーツ観戦とそれを押し付けてくるスポーツファンが嫌いなのも、ガリ勉と揶揄されて距離を置かれた学生時代に過剰なコンプレックスを抱いているのも、今や平成の過去の文化になりつつある歌い手のオタクがやめられなくて自分は何やってるんだと我に返るのも、全部「みんなと同じことができない」ことへの劣等感なのかも。だからこそ、私には個性を大切にしたい性格が強く出ているのかも。「成人式は一生に一度だけど、成人式に行かなかった日も一生に一度」という友人の言葉を思い出す。成人式に行かず、そのときの自分が大好きな推しのライブに行ったこと、将来の自分が後悔していないといいなー。(終)

 

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